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えつらいがくいん

Etsurai Institute

2024年6月25日  開始
​神鳴文書
​かみなり
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BET NOA

ノアの箱船の船底の化石

(1959年の発見及び専門家による長年の調査を受け、1977年にトルコ政府によって正式に発表された

その歴史的化石と大発見の写真)

ヘブライ語「ノアの家」の意。

(院長阿南巌とその協力者が開始した世界規模活動)

2024年6月25日

第1   水では、ない。

 ‘ALLAHU AKBAR’ (アッラーは最も偉大なり)の告白で結ばれているイスラム教徒の皆さん。

 大巡礼の最中に、1300人を超える大勢の尊い命が、失われてしまった。

 

 皆さんが資力や健康に応じて一生に一度は果たすべきだとされている五柱(イスラム教徒の五つの主要義務)の一つである「ハッジ」(大巡礼)の根拠が述べられているコーラン2章196節の最後に、「アッラーを意識しなさい。そして、アッラーは、懲罰に厳しいことを知りなさい。」と明記されている。

 

 イスラム教最大の聖地であるサウジアラビア西部のメッカ(ムハンマド出生の地、カーバ神殿の地)にて、今月14日から19日の間に酷暑の中で行われた今回のハッジにおいて、これほど多くの皆さんが主に熱中症で亡くなったことを我々は正しく理解しなければならない。

 「日頃の行いが悪かったから」、「ご加護が無かったから」、「アッラーの懲罰だ」との解釈は、本当に正しいのか。

 サウジアラビア政府から正式な許可を受けずに無登録で巡礼に参加することは、命を手放さなければならないほどのものなのか。

 倒れた人々をテント内で休ませることも、生死をさまよう同胞の容体を気にかけることもしなかった当局のその冷淡な姿は、イスラム教を守る人々の姿なのか。

 

 

 砂漠に水がなく母ハガルと息子イシュマエルが息絶えかけていた時に、彼らの祈りをお聞きになった御神が泉を与えてくださったという史実を、大巡礼の初めのうちにあるように、心から再認識するならば、アッラーの特徴が、「厳罰を下す」こと以上に、「情け」であることに気づくことができるはずである。

 あの時、アッラーが砂漠に泉を誕生させて下さらなければ、アブラハムの息子であるイシュマエルは、母とともに、あの地で、必ず、息絶えた。

 ゆえに、アッラーの情け深さに、目を向けるべきである。

 

 したがって、今回、工夫と対応次第で助けることができたはずの大勢がこのように死亡したことは、アッラーの偉大な御計画に明らかに反したものである。

 

 預言者ムハンマドが高所に立ち今も監視している、という圧力のもと、皆さんは大巡礼に参加している

 皆さんは、自らの少量の持ち物を固く縛り、携え、存在すると言われている古代の水場を目指し、砂漠を懸命に進んでいる。

 だが、最後の力でようやく到着するその水場で流れ出ているのは、水ではなく、緑色の液体である。

 

 -「これは、水ではない。」-

 

 また、ムハンマドが高所から皆さんを今なお監視しているという話も、事実ではない。

 彼も、人間であった。そして、人はこの世を去るその時から、この世に残る人々や次の世代を監視することは、できない。また、その人の魂がこの世に残ることも、夏の間に一時期的に戻ることも、存在しない。

 この世界には、誰も動かすことができない構造というものがある。

 目には映らないが、霊における固い構造が敷かれているのである。

 

 このため、霊の存在である悪魔に対し、ハッジの儀礼にあるようにミナーの谷で「悪魔の石柱」と呼ばれる柱に石を投げることも、実に、虚しいことである。

 そして、長年にわたる儀礼中の雑踏事故や不可解な航空事故等の悲惨な出来事にも拘わらず、メッカまでの交通機関の整備と発達とにより巡礼希望者が急増しているようだが、その交通整備に中国が大きく関わったことを意識する時、悪魔をぼかした姿である龍を大昔から崇拝するその漢族の力を借りて交通網が整備されたこと自体が、大きな矛盾であることが分かる。

 

 まことに、サウジアラビア政府の責任は、重大である。

アッラー 
アクバル
むな
サウジ親子_edited.jpg
サウジアラビア国王及び皇太子兼首相
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